人に傷つけられたという思いから抜け出すには?【第一段階】
こんにちは、内なる子供を癒してとらわれの人生からの脱出!心理療法家&講師のふるたてひろこです。
人の言葉に傷つけられた、という感覚を持ったことが一度もない、という人はいないのではないでしょうか?
私もかつて、人の言葉に傷つきやすい子供でした。
「こんなに傷ついてばかりじゃ、生きていけない。どうしよう。」
と真剣に思った小学4年生の日を今も覚えています。
それくらい、子供の頃の私は傷つきやすい感受性の持ち主でした。
私の場合はその後、人生を無事に生き抜くための苦肉の策として、「強くなる」ことを自分に課したように思います。
そのやり方は、最初はただ感覚を麻痺させるなど、幼いがゆえの未熟なものだったりもしましたが、歳を重ねる中で、少しずつ成熟したように思います。
半世紀を生きて来た今だからわかることは、
「人の言葉に傷つけられる」と思うこと自体が錯覚だったということ。
人は自分の許可なしに、人の言葉に傷つけられたりはしない、と思うに至ったのです。
この辺りの理由は、以前こちらに書きました。良かったらご覧ください。
今日触れたいのは、
それでも、「過去に人の言葉に傷つけられた」と感じている人に、その痛みからどうしたら逃れられるか?についてです。
この状態からの脱出にはいくつかの段階が必要です。
第一段階 傷ついた自分の気持ちに寄り添う
「人から傷つけられた」という認識は錯覚だと書きましたが、「自分が傷ついた」というのは紛れもない事実です。
この事実を認め、傷ついた自分の気持ちに寄り添うことが必要です。
思う存分、気持ちを認め、表現すること。
また、そのプロセスに肯定的に関わる第三者がいれば更に効果的です。
「傷つけられた」という痛みから抜け出したいのに、その気持ちに思う存分寄り添う、というのは、一見遠回りに感じられるかもしれません。
けれど、それは違います。このプロセスなしに次の段階には進めません。
この第一段階を避けている場合、その理由は次のようなものでしょう。
まずそこにあるのは、痛みと向き合うことを避けたいと思う気持ち。
あんな痛い思いをもう思い出したくない、そのことは考えたくない、という気持ちです。
自然と言えば自然な気持ちですね。痛いのが好きな人はあまりいませんから。
出来ることならばなかったことにしたい、その思いを、なぜにわざわざ思い出さなければならないのか?
痛みから逃避しようとする動きです。
けれど、そうしていても残念ながらなかったことにはなりません。
思い出すことも拒まざるを得ないくらい、痛みに囚われている自分がそこにいることに気づけばそれはすぐにわかることです。
このとき、100 %ではありませんが、しばしば現れる状態についても触れておきましょう。
それは、「自分を傷つけた(と自分が思っている)人を責め続ける」という状態です。
その人を責めている間中、傷ついた自分自身に本当の意味で寄り添うことは出来ません。
人は悲しみと怒りを同時に感じることは出来ないからです。
相手に向かう怒りと攻撃を止めて、自分に目を向けた時、初めて自分の気持ちに寄り添うことが出来るのです。
その傷ついた気持ちを、目を背けることなく認め、その傷つきの根底にどんな自分がいるのかを見つけ、寄り添い、誰よりも自分自身がその理解者となる時、その痛みは初めて癒されるのです。
すると、ようやく次の段階に進めます。
長くなりましたので、第二段階は次に続きます。
今日も最後までお読みくださってありがとうございました。